-
秋艸堂 扁額(漢字)
八一の住まいの名称です。 生涯に何度か転居をしていますが、20代後半からこの庵号を用いています。「秋艸堂」の「艸」は、草を総称する語句です。萩・菊・葉鶏頭など秋の草花を好んだところから命名されました。『渾齋随筆』(昭和17年刊)では、東京下落合に住んでいた頃、萩が庭によく伸びていて、文字の姿も「艸」冠に「秋」であり、秋艸堂にしっくりしたと述べています。 -
学規 扁額(漢字仮名交じり文)
「学規」は、大正3年(満33歳)旧制早稲田中学の教師をしていた頃に、自宅の書生のために定めました。自ら率先して実践につとめ、のちには、門下生と認めた人々に渡しています。八一はこの4ヶ条について「このくらいのところを目安にかかるなら、長い一生の末までには、いつか実行ができるのではあるまいか」と晩年に述べています。 -
涵之如海 養之如春 扁額(漢字・漢詩文)
後漢の歴史家・班固(32~92)選「答賓戯」(『漢書』巻一百上「敍伝」)の語句を引用しています。この言葉は、学問や見識を自然に染み込むように養い育てることの重要性を説いています。晩年、学校などから揮毫をもとめられると、この語句をよく書いています。 -
澄心 扁額(漢字・漢詩文)昭和20年代
漢の王・劉安(前179~前122)が学者たちに作らせた書『淮南子』「泰族訓」の語句を引用しています。心を潔くすませるという意です。 -
かすみたつ… 扁額(自詠和歌)昭和20年代
歌集『南京新唱』「望郷」より。 大意は、「春の霞が立ちこめている砂浜を踏みわけて、行きつ戻りつして物思いに耽ったことだ」。 八一は郷土と敵対したことはなく、東京にあっても望郷の念を持ち続けていたといいます。新潟の浜で過ごした若き日を懐かしんで詠んだ歌です。
-
湘娥清涙未曽消…(朱描蘭竹図) 条幅(漢字・漢詩文)昭和22年(1946)
元の詩人・呉師道「子昴蘭竹図に題す」より。紀元前300年頃、楚の国におこった文学『楚辞』の九歌を踏まえています。「(蒼梧での舜の死を聞き)湘水に投身して女神となった娥皇・女英の清らかな涙は涸れたためしがなく、また楚の落人屈原(楚客)の芳烈比類ない魂は招くことも出来ない。そして屈原(公子)の憂国の愁いに罹った心境を写し描く機会もない。露に濡れた花も、風に揺らぐ葉も共に悲しげに音を立てている」。という。八一は『楚辞』をとても好きで、関係した文献が本箱一つ分くらいあったといわれます。 -
池養右軍鵞 条幅(漢字・漢詩文)昭和22年(1947)
唐の詩人・孟浩然(689~740)「晩春題永上人南亭」より。「右軍」は、東晋の三軍の1つで、右軍の将軍職にあった王羲之を尊称しています。語句は永上人は王羲之が好んでいた鵞鳥を飼育していた。といいます。 この作品は、昭和22年、八一の生前に刊行された書画作品集『遊神帖』に掲載されています。 -
天半朱霞 条幅(漢字・漢詩文)昭和20年代
「天半朱霞」は直訳すると“中天の赤い霞”ですが、唐の李延寿(生没年不詳)編『南史』「劉訐伝」に 訐超超越俗 如半天朱霞 という語句があります。意訳するとは、世俗をはるかに超えた高潔な人といい、また半天朱霞のようだと表しています。この語句をヒントに四字を揮毫したと思われます。 -
行到水窮處… 条幅(漢字・漢詩文)昭和21年(1946)春
王維(699~759)「終南の別業」より。 詩文は、ぶらぶらと流れの尽きるあたりまで歩いて行き、腰を下ろし、世俗の雑念を離れて、雲の湧くのを無心に眺めているという意味です。 八一は王維の詩の他に、陶淵明、李白、李賀の詩などの詩をよく揮毫しています。 -
始随芳草去… 条幅(漢字・漢詩文)昭和20年代
宋時代の禅僧・圜悟(1063~1135)『碧巌録』より。 詩文は、草といい花といい、気の向くまま楽しんでいる。夢の中にあっても春(世間的な迷い)にほだされず悠々としている。という意です。 -
あさやまを…(鉢の子図) 条幅(自詠和歌)昭和20年代
歌集『寒燈集』(昭和22年刊)「鉢の子」より。昭和20年の歌作。 詞書に「その日(5月30日)國上山源八新田なる森山耕田が家に借りて禅師が手澤の鉢の子を見る」とあります。大意は、「朝心も軽く山を下られたのであろうか。その時あなたの袂にあったのはこの鉢の子なのだな」。東京の大空襲で罹災して新潟に戻った八一は、郷土の先人であり敬慕する良寛禅師の旧蹟を早速訪ねて歌を詠みました。 -
蕭騒寒雨夜…(風竹図) 小品(漢字・漢詩文)昭和16年(1941)
唐の詩人・杜牧(803~852)の詩「栽竹」より。 詩文は、冷たい雨の降る夜は何か物寂しい。夕暮れの風が吹く時は心が打ちふさがれるという意です。 書は還暦を記念し、東京銀座鳩居堂において本格的な書画個展を開催した時の出品作品です。 -
倣岸不遜 かまづかの したてるまどに…(自画像図) 小品(漢詩文・自詠和歌)昭和21年(1946)11月
歌集『山光集』「雁来紅」より。昭和15年9月の歌作。 大意は、「燃立つ雁来紅の見える窓に肘をついて、今の世をあざけり笑おうというしたたかな心は私にはありません」。「かまづか」は別名「雁来紅」または「葉鶏頭」ともいいますが、八一は堂号である「秋艸堂」に因んで、秋草を愛で、葉が赤や黄色に斑紋する雁来紅をよく育てました。 -
みみづくの…(みみづく図) 横物(自作俳句)昭和20年代
「みみづくの」俳句は、義弟のドイツ文学者・桜井天壇(1879~1933)宛書簡によると、明治40年頃、八一27歳の作と推定されます。 八一が晩年までよく揮毫した句で、後年歌人として高く評価されていますが、実は中学生の頃から俳句を作り、21歳にして地方新聞の俳句選者をつとめたことがあります。
-
ほほゑみて… 色紙(自詠和歌)昭和20年代
歌集『南京新唱』「奈良博物館にて」より。大正10年頃の歌作。 大意は、「ほほえんで、夢みごこちの御様子でお立ちになっておられる百済観音像に匹敵する仏像はなかろう。」 『渾齋随筆』(昭和17年刊)によれば、当時、奈良博物館にあった法隆寺の百済観音像を見て、物静かな顔の表情、静寂を極めた姿態、その底に動く大きなリズムの力を感じ、至高の芸術と讃えて詠んだと述べています。 -
おほらかに… 色紙(自詠和歌)昭和20年代
歌集『南京新唱』「東大寺にて」より。大正10年頃の歌作。 大意は、「ゆったりと両手の指をおひらきになる大仏は、宇宙に広く満ちひろがっておられるのだ。」 『梵網経』によれば、東大寺の大仏は人類・世界の救済のために、宇宙に遍満し無限の生命を保って常に教えを説くのだそうです。その大仏を仰ぎ見て詠んでいます。 -
はつなつの… 色紙(自詠和歌)昭和20年代
歌集『南京新唱』「奈良博物館にて」より。 大意は、「初夏の風吹く頃になったと、み仏は小指のさきでほのかにお感じになっておられるらしい。」 奈良博物館に出陳中であった岡寺の如意輪観音半跏思惟像を詠んでいます。『自註鹿鳴集』(昭和28年刊)によると「をゆびのうれに ほのしらすらし」は「小指の末端は最も敏感なるものならば、かく詠めるなり」と述べています。 -
おほてらの… 色紙(自詠和歌)昭和20年代
歌集『南京新唱』「唐招提寺にて」より。大正10年頃の作。 大意は、「大寺のまろきはしらが月の光をうけて地上に影を落とし、その影を踏みながら懐古の思いにひたったことだ。」 『渾齋随筆』(昭和17年刊)によれば、大寺の「まろきはしら」は、唐招提寺や法隆寺の円柱でもなく、若い頃より心惹かれていたギリシアのパルテノン神殿を思い描いて詠んだと述べています。 -
すゐえんの… 色紙(自詠和歌)昭和20年代
歌集『南京新唱』「薬師寺東塔」より。大正13年に詠んでいます。 大意は、「すゐえん(水煙)の何人かの天女の群れが、横笛を吹いたり、舞を舞ったりしている。それを下から見上げると、今日はよく晴れた日で、天女の袖や袂の間からも澄み切った秋の空の色が見える。」 「水煙」は、寺院の塔の頂上に銅の柱があり、周りに9つの輪があります。その上にやはり銅で、網の目のような透かし彫りで、全体が火焔型に造られています。東塔の水煙は最も優美といわれています。
-
詩箋貼交屏風 屏風昭和20年代
箋7枚を屏風仕立てにした作品のうち、仮名作品3点を紹介します。 -
かすがのに… 詩箋(自詠和歌)昭和20年代
歌集『南京新唱』「春日野にて」より。 大意は「春日野に照りわたる月光は隅なく澄んで、まさに秋の夕べとなったのだなあ」。 「春日野」は奈良市街の若草山の麓から現在の奈良公園一帯をいいます。八一のいにしえの奈良に寄せる思いは深く、高雅なしらべで歌に詠んでいます。 -
ゆめどのは… 詩箋昭和20年代
歌集『南京餘唱』「法隆寺東院にて」より。大正14年の歌作。 大意は、「夢殿はなんと静かなのだろう。聖徳太子が中にこもって瞑想に耽って今もおられるかのようだ」。 夢殿は『聖徳太子伝暦』によれば、聖徳太子が引きこもって瞑想に入った居室。歌はその伝説をもとに、在りし日の太子を偲んで詠んでいます。 -
ふたがみの… 詩箋昭和20年代
歌集『南京新唱』「当麻寺にて」より。 大意は、「二上山にある寺の正門の石の階段は、秋も深まって、山の雫によっていつもしたたりぬれている」。 二上山の山腹沿いにある当麻寺は、奈良時代の創建時は南面に正門がありました。鎌倉時代に現在の本堂が建立され東門が正門となりました。歌は本来の正門にあたるものさびしい石階周辺の実景を情感込めて詠んでいます。
-
吉野秀雄宛書簡 巻子(書簡)昭和15年(1940)4月8日
書簡の冒頭部分より。 會津八一は書簡を毎日のように書き記しており、晩年だけでも7千〜8千は書いたと推測されています。巻紙に毛筆のこの書簡は、歌の唯一の門人吉野秀雄(1902~1969)に宛てたもので、8メートル40にも及ぶ手紙です。吉野秀雄が八一歌集『鹿鳴集』の校正を手伝っていた際、歌語の用法や文法、解釈についての頻繁な質問をしており、それに応えた返書です。 -
中田瑞穂宛書簡 巻子(書簡)昭和30年(1955)12月26日
書簡の一部分より。 書簡は、主治医で脳神経外科の先駆者であった中田瑞穂(1893~1975)が楷書の揮毫を依頼した時の謝絶状です。二人はよく書道談義をする間柄で、書簡の中でも八一独自の書論が述べられています。また、八一は瑞穂の絵を高く評価し、自詠の歌を讃するなど数十点の合作をも残しています。 -
歌をよむには 巻子(書簡)昭和23年(1948)1月29日
書簡の冒頭部分より。 従弟・中山後郎(1891~1962)に宛てた書簡です。後郎は医師で、短歌を尾山篤二郎に師事し、八一にも批評を仰ぐことがありました。文面は、書簡の形式ですが、短歌を詠む心得を説いています。その心得は書を揮毫する時、舞を舞う時、お茶を立てる時など芸術全般にも通じるものです。
-
旅行カバン 遺品
明治末から大正にかけて、全国各地を旅行する時に携えていたカバンです。健脚にまかせて歩きまわった旅行地(奈良、大津、九十九里浜、霞ヶ浦、足尾、日光)が布製カバンの裏面いっぱいに毛筆で書かれています。 -
自製勲章 勲章(遺品)昭和20年代
丁寧でこまやかな手作りの勲章です。八一は学問や書や歌に大きな功績を残していますが、叙位叙勲には縁がありませんでした。この勲章は常に在野にあって、ひたすら独往の道を邁進した自らをほめて作ったのかもしれません。 八一自身は、昭和26年に新潟市名誉市民第一号に推薦されています。 -
文房具類 遺品
八一は文房四宝(筆・墨・硯・紙)について深い造詣を持っていました。中でも硯については、昭和31年3月19日北方文化博物館新潟分館で、古硯の鑑賞会「洗硯会」を催しています。実際使用する際には装飾的なものよりも実用的な文房具を好んでいたようです。 -
書入陶器 小皿(陶器)昭和20年代
陶芸家・齋藤三郎(1913~1981)の陶器に八一が書入れしています。 齋藤三郎は、新潟県長岡市(旧栃尾市)出身で、近藤悠三、富本憲吉に師事しました。昭和27年には、東京壷中居で八一の書入陶器展を開催しています。この作品は、小皿の上に饅頭をのせて客に出す、饅頭を一口食べるとその文字が見え、客が唖然とする。…実際に使用したのかわかりませんが、八一のユーモア精紳が表れている作品です。 -
筆洗い及び水滴 油絵(絵画)昭和4年(1929)
昭和4年の夏に油絵を十数点試作しました。油絵への挑戦はこの時期のみでした。友人の洋画家・曽宮一念に絵の具一揃え用意してもらい、指導を受けました。初めて試みたこの油絵からも八一の確かな観察眼が窺えます。 -
及其至也不亦楽哉 楹聯(漢字・漢詩文)昭和16年春
孔子(前552~前479)『論語』の学而第一に 「子曰く、学びて時に之を習う 亦た説ばしからずや 朋遠方より来たり、亦た楽しからずや」 がありますが、八一がそこから発意した言葉だと思われます。刻字は八一の書をよく知る蝸牛洞主人吉田憲一郎の刀によるものです。東京銀座鳩居堂で還暦記念近作書画展に出品した作品です。
歌集「南京新唱」(なんきょうしんしょう)
1924年(大正13)12月15日刊
會津八一の最初の歌集で、著者名は秋艸道人。奈良を詠んだ「南京新唱」や「村荘雑事」など全152首が収録されました。装丁は八一自身が意匠し、坪内逍遙をはじめ、先輩知友らの序や跋、図版を掲載しています。売れ行きは伸びませんでしたが、一部では評価され、後に『鹿鳴集』に改録された際、世に知られるところとなりました。
歌集「鹿鳴集」(ろくめいしゅう)
1940年(昭和15)5月22日刊
還暦を機に「南京新唱」から今までの短歌をまとめた歌集。過去に発表された短歌に推敲を練り、修正を加え、全332首を収録しました。斎藤茂吉をはじめ多くの文化人から絶賛され、歌人としての評価を決定づけた一冊。
書画集「渾齋近墨」(こんさいきんぼく)
1941年(昭和16)8月28日刊
還暦記念に開催した展覧会を機に制作した初めての図版集。自分の思い出の種として、また希望者に渡すために制作されました。漢詩や短歌などを揮毫した近作48点を収録した図録は、書だけではなく、画に賛を入れた作品もあり、扁額、軸など形式も多様です。
随筆集「渾齋随筆」(こんさいずいひつ)
1942年(昭和17)10月30日刊
歌集『鹿鳴集』出版後、八一の短歌は解りにくいとの評判を受け、注釈を随筆風に書いた著書。奈良美術研究などで得た知識と、口述的な文章で、歌の余滴をまとめています。このような自作自註は、後の『自註鹿鳴集』につながりました。
歌集「山光集」(さんこうしゅう)
1944年(昭和19)9月20日刊
前作『鹿鳴集』と同様、古跡古美術に関する短歌を中心に、4年間の作歌をまとめ、旧作「斑鳩」を加えた歌集で全257首を収録。生涯の中で最も多く作歌した時期で、戦争など当時の時代背景と重なる短歌も残されています。
歌集「寒燈集」(かんとうしゅう)
1947年(昭和22)4月15日刊
前作『山光集』以降、昭和21年6月までの短歌212首を収録した歌集。養女キイ子との死別の際に詠んだ絶唱「山鳩」など、戦中戦後、東京から新潟へ疎開した八一の窮乏時代の名歌が収録されています。
書画集「遊神帖」(ゆうじんじょう)
1947年(昭和22)5月20日刊
昭和20年秋頃から21年末まで揮毫したものの中から46点を選んだ作品集。書画集『渾齋近墨』と同様、さまざまな形式の書が掲載されています。新潟に帰郷してからの、晩年の創作活動が垣間見られる一冊。
歌集「會津八一全歌集」(あいづやいちぜんかしゅう)
1951年(昭和26)3月25日刊
古稀を記念して企画された歌集で、『鹿鳴集』、『山光集』、『寒燈集』を修正し、それ以後の短歌を加えて刊行されました。この歌集で同年5月に、第2回読売文学賞を受賞しています。
歌集「自註鹿鳴集」(じちゅうろくめいしゅう)
1953年(昭和28)10月10日刊
歌集『鹿鳴集』に自らの注釈を加えてた歌集。歴史から伝説、文法などあらゆる学識を生かして執筆した八一の短歌鑑賞の集大成となる一冊。現在まで何度も増刷されているベストセラー。