新潟市 會津八一記念館

題字

「春のくさ・秋のかぜ – 浅川園」(はるのくさ・あきのかぜ – あさかわえん)

春のくさ秋のかぜ

「春のくさ 暮れて 秋のかぜに おどろき
秋のかぜ やみてまた 春のくさにも なれり」出典は『平家物語』「逆櫓(さかろ)」より。

1938(昭和13)年創業のお茶の販売店。本店は新潟市。戦後、創業者の浅川晟一会長は會津八一と交友のあった新宿中村屋の創業者・相馬黒光と面会した際、「會津先生を大事にして下さい」とお願いされました。それから八一と交流が始まり、浅川園は八一の散歩の途中で立ち寄る場所になりました。

1955(昭和30)年の新潟大火の際、浅川園古町本店が全焼。浅川晟一会長はその処理に追われましたが、新潟に帰ると従業員が八一からこの作品を渡されていました。

題字「山家漬 – 今成漬物店」(やまがづけ – いまなりつけものてん)

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新潟県南魚沼市六日町の漬物店。
創業者の今成隼一郎は、新潟中学校で會津八一の一年後輩、俳友でもありました。

隼一郎は亡くなる1936(昭和11)年まで、精神的、財政的に八一を支えています。
「山家漬」は、今成家の粕漬を、1932〜33(昭和7、8)年頃に商品化したもの。
「山家漬」の名は、會津八一が西行の『山家集』にちなんで命名し、題字を揮毫しました。

看板「大阪屋」(おおさかや)

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1858(安政5)年創業の、新潟を代表する老舗菓子店。
1950(昭和25)年、店舗の看板がなかったため、八一に依頼しました。それ以後、八一に店内を飾る軸を依頼するなど、交流が続きました。
大阪屋の看板は、1951(昭和26)年から古町店に飾られています。
1978(昭和53)年に創業120周年記念和菓子「喫茶去」を発売していますが、その題字は八一の書から採字されています。

題字「かまづか・秋艸 – 里仙」(かまづか・あきくさ – さとせん)

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1927(昭和2)年創業の新潟市の老舗菓子店。
1992(平成4)年に発売された「かまづか最中」は、里仙が所蔵する八一作品から命名された一口サイズの最中。
里仙と會津八一は書を通して交流があったようで、八一の養女蘭子の実家・中山医院など、八一周辺の人物たちとも交流をしていたようです。
1959(昭和34)年に発売した「秋艸」は、当時の新潟市長で會津八一と交友のあった村田三郎が命名した、秋からの期間限定品。

題字「新潟日報」(にいがたにっぽう)

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新潟県の地方新聞社。1942(昭和17)年に3社が合併して新潟日報社となりました。
戦後、別会社として「夕刊新潟社」が設立されましたが、會津八一は1946年(昭和21)5月、坂口献吉の懇請により社長に就任しています。
1949(昭和24)年12月31日、新潟日報社と夕刊新潟社が合併したため、八一は新潟日報社の社賓となりました。
この題字は1949年1月より使用されています。八一は80枚ほど書き、その中から選んだといいます。

題字「壷中天地 – 高橋酒造」(こちゅうてんち – たかはししゅぞう)

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安政年間(1854~59)創業の長岡市地蔵町の酒造会社。
先代社長夫人高橋俊は新潟県胎内市(旧中条町)の出身で、會津八一と遠戚にあたります。
その縁もあり、1946年(昭和21)10月に長岡市で八一の講演会が開催された際に、「壷中天地※1」の書作品を渡されました。
現在、高橋酒造の最高級酒の銘柄として販売しています。

※1「壷中天地」とは「俗世間を忘れた別天地、別世界、仙境」を意味する。出典は『漢書』より。

北方文化博物館

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北方文化博物館は新潟市江南区沢海にある大地主・伊藤家の邸宅を博物館にした施設。

會津八一は、1946年(昭和21)7月から没年の1956年(昭和31)11月まで、北方文化博物館館長の伊藤文吉氏の別邸の洋館で暮らしました。この看板はそのお礼を込めて揮毫されたものになります。八一が住んだ洋館は、新潟市中央区南浜通にあり、現在の北方文化博物館新潟分館になります。

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