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少年時代
- 1881(明治14)年8月1日、新潟市古町通5番町にうまれる
- 1899(明治32)年来遊した尾崎紅葉に面会し俳号「鉄杵」をもらう
坪内逍遙の講演に感動 - 1900(明治33)年 19歳新潟県尋常中学校(現県立新潟高等学校)を卒業する
東京で正岡子規に会い良寛を紹介、後日良寛の歌集を送る - 1901(明治34)年 20歳「東北日報」の俳句選者になる
青年時代(大学生・有恒学舎教師時代)
- 1902(明治35)年 21歳東京専門学校(現早稲田大学)に入学。翌年、早稲田大学文学科に入学
- 1906(明治39)年 25歳早稲田大学文学科卒業
新潟県中頚城郡板倉村(現上越市)有恒学舎(現県立有恒高等学校)の英語教師に就任 - 1907(明治40)年 26歳「新潟新聞」の俳句選者になる
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1908(明治41)年 27歳新潟県中頚城郡新井町(現妙高市)の醸造家入村四郎作宅で、俳人小林一茶自筆「六番日記」を発見
初めて奈良地方を旅行し、和歌20首を詠む。これらを「西遊咏艸」と題する
(以後35回以上奈良へ旅する)
早稲田中学校教師時代
- 1910(明治43)年 29歳有恒学舎を辞職し、早稲田中学校の英語教師に就任
- 1914(大正3)年 33歳東京市小石川区豊川町に引っ越す
「学規」四則を定める - 1920(大正9)年 39歳日本希臘(ギリシャ)学会を設立
- 1922(大正11)年 41歳東京市外落合村下落合、市島謙吉の別荘閑松庵に転居し、秋艸堂と自称する
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1923(大正12)年 42歳関東大震災
日本希臘(ギリシャ)学会を解消し奈良美術研究会を創立 - 1924(大正13)年 43歳會津八一監修『室生寺大観』を飛鳥園から刊行
第一歌集『南京新唱』刊行
早稲田大学教授時代
- 1925(大正14)年 44歳早稲田中学校を辞職、早稲田大学付属高等学院教授となり、英語を担当
- 1926(大正15・昭和元)年 45歳早稲田大学文学部講師に再任、東洋美術史の講座を担当
- 1931(昭和6)年 50歳早稲田大学文学部教授に就任
- 1933(昭和8)年 52歳『法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究』を刊行
この年から高橋きい子(義妹)が家事を見る - 1934(昭和9)年 53歳文学博士になる
早稲田大学恩賜館に東洋美術史研究室を開設 - 1938(昭和13)年 57歳早稲田大学文学部に藝術学専攻科を設置し、主任教授に
- 1940(昭和15)年 59歳歌集『鹿鳴集』を刊行
- 1941(昭和16)年 60歳銀座鳩居堂で近作書画展を開催、書画図録「渾齋近墨」を刊行
- 1942(昭和17)年 61歳奈良・新薬師寺に最初の歌碑「ちかづきて」を建立
随筆集『渾齋随筆』を刊行 -
1943(昭和18)年 62歳奈良・春日大社境内に「かすがのに」の歌碑を建立
学徒出陣を控えた学生を奈良・京都の研修旅行に引率 - 1944(昭和19)年 63歳歌集『山光集』を養徳社より出版
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1945(昭和20)年 64歳早稲田大学教授を辞任する
空襲により罹災し、新潟県北蒲原郡中条町(現胎内市)の丹呉康平宅に寄寓
7月10日、養女きい子病没(享年33歳)
「夕刊ニヒガタ」社長時代と晩年
- 1946(昭和21)年 65歳「夕方ニヒガタ」創刊にともない夕刊新潟社の社長となり、新潟市南浜通二番町に転居
- 1947(昭和22)年 66歳歌集『寒燈集』と書画図録『遊神帖』を刊行
- 1949(昭和24)年 68歳従兄弟中山後郎の娘蘭を養女とする
- 1950(昭和25)年 69歳新潟日報社の社賓に(夕刊ニイガタが新潟日報社に合併)
新潟県立図書館に「みやこべを」の歌碑建立
奈良・東大寺に「おほらかに」、唐招提寺に「おほてらの」の歌碑を建立 - 1951(昭和26)年 70歳新潟市名誉市民に
『會津八一全歌集』を刊行、これにより読売文学賞を受ける - 1953(昭和28)年 72歳宮中歌会始の儀に召人として臨席する
『自註鹿鳴集』を刊行 - 1954(昭和29)年 73歳早稲田大学會津博士記念東洋美術陳列室を移転し再開
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1955(昭和30)年 74歳香川県五剣山八栗寺の鐘銘を揮毫する
北方文化博物館分館に「かすみたつ」の歌碑を建立 - 1956(昭和31)年 75歳11月21日、冠状動脈硬化症により永眠
戒名は生前に自撰した「渾齋秋艸道人」、墓は新潟市中央区西堀通三番町の瑞光寺にある